はっきりと形にできない。

それは多分、そこに自分がいないから。少しでいいから、自分という存在を置いてみればいい。そうすればまずよく分からないという所までは行き着くことができると思う。少し泣いてみるのもいいかもしれない。そうして生まれた涙は簡単にティッシュに吸い込まれて、ゴミ箱の中にいます。どうしようもないときは、どうしようもない。肯定は否定で否定は肯定。そういう訳のわからなさは、生きている事なのかもしれない。死んでいて、簡単なら。全部はありのままに綺麗に進んでいくのだと思う。自分というものがあるから、理解とか矛盾とか生まれてくる。つまり観察とは、全知では居られないことの表れであり、また何かをまた知ることができることの象徴なのだ。